ラブアン直轄植民地

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ラブアン直轄植民地, by Wikipedia / CC BY SA 3.0

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ラブアン直轄植民地(ラブアンちょっかつしょくみんち、英語: Crown Colony of Labuan)は、かつてボルネオ島北西部に置かれていたイギリスの直轄植民地。
1846年にブルネイ帝国からラブアンを割譲し、1848年に設立された。
ラブアン本島に加え、周辺のブルング島、ダアト島、クラマン島、パパン島、ルスカン・ケシル島、ルスカン・ベサル島の6島から構成されていた。
ラブアンは、当時のイギリス人にとって第2のシンガポールになると期待されていた。
だが、ラブアンでの石炭産業は上手くいかず、見限った投資家たちが資金を引き上げた結果、全ての機械設備と入植した中国人労働者を現地に残しただけで何の利益も上げられなかった。
残された中国人労働者たちは、現地で生産される燕の巣や真珠、サゴヤシ、樟脳などを用いて新たな商売を展開し、のちにココヤシやゴム、サゴヤシを中心とした産業で成功を収めることとなる。
第二次世界大戦が勃発すると、東南アジアに勢力圏を拡大した大日本帝国によって突如イギリスの統治は終焉を迎えた。
大戦中は日本の統治下に置かれたラブアンだが、末期には日本のボルネオ守備軍である第37軍の司令官が連合国に降伏した地となった。
短期間の軍政を経て、1946年に北ボルネオ直轄植民地へ編入される形で消滅した。
ラブアンで初めて翻るユニオン・ジャック(1846年12月24日) 1841年にジェームズ・ブルックがボルネオ南西部でサラワク王国を建国し、続いて周辺の海賊征伐に乗り出した。
ちょうどそのころ、彼はイギリス政府に対し半ばしつこくラブアンの存在を売り込んでいた。
ブルックは他のヨーロッパ諸国を牽制するためにも、イギリスの海軍拠点や植民地、保護国をボルネオ北部沿岸に設立するよう要請している。
要請を受けたイギリスは、海軍本部からチャールズ・ベスーンを派遣し、1844年11月より海軍拠点建設に向けた調査を開始した。
この調査には、同時期に東南アジアで調査を行っていたエドワード・ベルチャーと帆走フリゲート「サマラン」も同行している。
1845年、外務省はブルックをブルネイ帝国との外交官に任命し、ベスーンへの協力を仰いだ。
同時に、外務大臣の第4代アバディーン伯爵ジョージ・ハミルトン=ゴードンはブルネイ帝国のスルターンに対し、他国とのいかなる条約も締結しないよう要請する書簡を送っている。
この時すでに、ブルネイ帝国領はイギリスの拠点として目論まれていた。
1845年2月24日、ベスーンは木造スループ「ドライヴァー」を伴って香港を離れ、より島の調査に乗り出した。
調査中、船員たちはボルネオ島の他のどの沿岸部の住人よりも、ラブアンの住人が石炭鉱床に適していることを見出した。
これを受け、イギリスはラブアン島が次のシンガポールとなる夢を膨らませることとなる。
1846年12月18日、ブルックはブルネイのスルターンであるオマール・アリー・サイフッディーン2世とラブアン条約を締結し、ラブアンの所有権がイギリスへ移った。
ロドニー・マンディは6等艦「アイリス」でブルネイに赴き、正式かつ最終的にイギリス政府が島の領有を決断するまでスルターンとの調和を保った。
1846年12月24日、島のイギリス領有に際し、彼はスルターンのアブドゥル・モミンを立会人とした。
ブルックは一連の移行を取り仕切り、1848年にラブアンはイギリスの直轄植民地および自由港となった。
初代総督にはブルックが就任している。
1890年より、ラブアン直轄植民地は北ボルネオ会社の管理下に置かれ、再びイギリス政府による支配に戻ったのは1904年のことである。
1906年10月30日、イギリスは海峡植民地にラブアンを編入して拡大する提案を行い、1907年1月1日にラブアン直轄植民地は海峡植民地に編入されることとなった。
大日本帝国海軍 大日本帝国陸軍 ラブアンに上陸した日本軍(1942年1月14日) 第二次世界大戦が勃発すると、1942年1月3日に大日本帝国海軍はラブアンの海岸に停泊した。
島に置かれていた債券などは、日本軍に渡らないようイギリスによって焼き捨てられていた。
残りの日本軍はボルネオ西部のメンパクルに向かい、軍の強化を図った。
まもなくボルネオは陥落し、ラブアン直轄植民地も大日本帝国領に組み込まれることとなった。
一帯はボルネオ守備軍によって統治され、島の名前も初代守備軍司令官の前田利為に因んで「前田島(まえだしま、英語: Mae…

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